慶応義塾高校の優勝で幕を閉じた今夏の全国高校野球大会。
優勝校の、球児の髪型を含めた従来の在り方とは一線を画す野球への取り組み方や監督の考え方に注目が集まった大会でもあった。
世間の注目を集めたテーマとして、以下の3つを挙げたい。
① 前例踏襲と横並び主義への異議
➁ 監督と生徒とのコミュニケーション
③ 生徒の主体性の尊重
高校野球といえば丸刈りなのか?
これまでは、高校球児といえば丸刈りが当たり前の光景だった。
バリカン一つで部員の散髪ができるとか、汗や帽子との相性だとか、チームの一体感とか、いろんなメリットもあると言われているが、近年は自由な髪型を容認する学校が急速に増えているそうだ。
今大会はベスト8に「非丸刈り」校が3校も残り、球児の髪型に関する議論はさらに拡大していくだろう。
大切なのは、「高校野球といえば丸刈り」という固定観念と横並び主義に対して異議を唱えることだ。
丸刈りは何のためにあり、本当に必要なものなのだろうか?と、「あたりまえ」を問い直してアップデートできているのか。
もちろん、「全員丸刈り」に意義があるなら、それはそれで尊重されるべきだ。
本ブログでは、「あたりまえ」をアップデートする重要性や、経営者や親のアンラーニング(学びなおし)について書いてきた。
はからずも、今夏の高校野球を制した高校が同じテーマをクローズアップしてくれたように思う。
もう一つ、高校野球の「あたりまえ」を俎上に上げたのは、夏の異常な高温である。
丸刈りで汗だくで全力プレーをして、泥まみれで号泣する球児たちが高校野球を国民的なドラマに仕立て上げているわけだが、それも本当に必要なものだろうか?
「夏の」「甲子園」である必要はあるのか?という問いは選手や観客の健康に直結するものでもあるが、前例にとらわれない、そして結論ありきでもない、活発な議論が進められることを期待したい。
「監督の言うことを聞く」から「選手の言うことを聴く」時代へ
今大会は、笑顔でのびのびとプレーした慶応高校を率いる森林監督とともに、2連覇を逃して準優勝した仙台育英高校の須江監督にも注目が集まった。
決勝で戦った二人の監督に共通するのは、選手とのコミュニケーションを非常に大切にしている点だろう。
二人は、野球の監督だけではなく、実際に教壇に立つ先生でもあり、生徒たちの野球以外での成長も視野にいれた指導をしているという。
さらに、二人とも選手としての実績は華々しいものではなく、だからこそレギュラー以外の生徒にも寄り添い、チーム全体に安心感と信頼を形成している。
選手としての成功体験が乏しいので、自分の体験や考えを押し付けることがなく、逆に挫折を経験しているからこそ、言葉を大切にして補欠の選手たちの気持ちにも寄り添える。
成功体験の乏しさは、データ分析や方法論について徹底的に学び、謙虚に考える姿勢にもつながっている。
上からの叱責や強制ではなく、事実に基づいた客観的な指導を行い、生徒の声や気持ちも尊重することで、チームの結束力と実力を底上げする指導方法は、青山学院駅伝部の原監督やWBC日本代表の栗山監督にも共通する。
今の時代にあった、目の前のメンバーにあった方法を模索し、柔軟に対応しながらベストをひきだしていく終わりのないアンラーニングと、そのために生徒の意見にも耳を傾けるというひたむきなコミュニケーションスタイルが、実に新鮮で、世間の共感を集めたのは非常に印象深い。
「主体的な学び」の一環である「部活」
高校野球は何十年もテレビで生中継され、盛大なエンターテインメントになっているが、高校の一つの「部活」に過ぎない。
教育の一環であるから、昨今よく話題となる「主体的な学び」が取り入れなければならないはずである。
有無を言わさず丸坊主を強要されるとか、一球ごとに監督のサインと指示通りにプレーして、失敗すれば叱責されるとか、厳しすぎる上下関係とか、ともすれば暴力的な指導が黙認されてしまう雰囲気とか。勝つことが何よりも優先され、酷使される選手とか。
これらはすべて、生徒の主体的な学び(と健全な心身の成長までも)を奪うものである。
上からの指示通りにしか動けない、周りと同じようにしか動けない人にしてしまう。
効率性・均質性ではなく、個別化・多様化の時代には不適合な教育だ。
今回は決勝で対戦した2校の監督が自書やインタビューなどを通して、選手自身が自分で考え、理解し、実践し、修正していく野球を全面に打ち出し、結果が伴ったことで、旧態依然とした「高校野球」像の時代錯誤性を露呈させることになった。
スポーツの可能性
偶然だが、高校野球の決勝戦の翌日に、サッカー日本代表元監督の岡田武史さんが、スポーツで主体性を育む取り組みを始めたという記事がでた。
「30年前にJリーグが始まり、外国人監督がたくさん来た。みんな口をそろえるように「なんで日本人は『ここでどうプレーするのか』と聞くのか。それを自分で判断するのがサッカーだろう」と言われた。当時僕らは「ここでボールを持ったら、ここに蹴れ」と指示していた。それじゃだめだと。だから選手に考えさせようと自由を与えてきた。それなりによくなったけれど、根本的な解決になっていないと思うことが多々ある。(中略)
16歳まで徹底的に原則を教えてあとは自由にするという、今までと違う育成をやってみたら、主体的にプレーする自立した選手が出るんじゃないかと。言われたことをきちんとやるのは日本人のいいところなんだけれど、これからの時代を生きていくには、個を尊重する主体性と、違いを受け入れる度量が必要だと痛感した。」
指導者が時代にあわせた育成を取り入れることで、これからの社会をリードする人材が生まれるのであれば、スポーツの可能性は大いに期待できる。
この夏の甲子園は、そんな可能性の片りんを見せてくれた大会であった。
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