二拠点居住コラムをスタートするにあたり、情報を整理してみた。 8年と思っていた年月はいつの間にか11年目になっていた。 私の場合は、家族が住む大阪が1拠点で、 2つ目の拠点は東京7年4ヶ月、七尾3年6ヶ月。 つまり家族は大阪に住んでおり、東京でも七尾でも行ったり来たりするのは私、という形のため、単身赴任と言った方がわかりやすいかもしれない。 しかし、東京と七尾での二住は、その拠点で「住んでいる」のか「暮らしている」のかで、その意味合いは大きく違う。 東京では、仕事をするためにそこに住んでいるだけ。そこに生活はなかった。 一方で、仕事だけではなく、人と地域につながる暮らしが七尾にはある。 東京でも七尾でも仕事内容や滞在頻度に大きく違いはない。
が、私自身の働き方・暮らし方をひっくるめた”その拠点での在り方”が違う。 東京では、仕事のために住む「単身赴任」。 七尾では、仕事もあるし暮らしもある「二拠点居住」。 これからコラムをお届けしていくにあたって、この違いにはぜひ注目していただきたいと思う。 さて、今回は基礎知識として、東京での二拠点居住と七尾での2拠点居住の概要を簡単にまとめてみた。 「友田さん、どんなことやってたんですか?」と思われていた方には、少しは分かってもらえるだろう。
①東京での仕事が決まった ②ズバリ!妻が東京で子育てしたくなかったから。 この時長男3歳、長女1歳。 議員生活を終え、2年ちょっとの会社員生活を経て、東京での仕事のオファーをいただいた。 妻には、一言伝えたくらい。東京での仕事相手と妻が面識があったので、心配はなかったとも思う(笑) 完全に私もわがままだが。
当時は平日はずっと夜遅くまで働いており、深夜にタクシーで帰宅というような生活だった。 家よりも会社に近い妻の実家にお世話になったことは、1度や2度ではなかった。
私だけでなく妻もそんな生活に疑問を感じていたのかもしれない。
■東京生活 基礎情報
・リサーチ&コンサル業 ・企業のCSRやSDGs ・サステナビリティに関する支援と地域活性、地方創生。
・地方出張も多め(1年間に23都道府県に行ったことも(笑))
当時は、マイクロソフト、コカ・コーラといった名だたる外資系企業と仕事をさせていただいた。
外資系企業は、日本の災害復興支援に、日本の企業以上に意欲的だったのが印象に残っている。
それはなぜか? 詳しい話は割愛するが、外資系企業は言わば日本支社なので、日本国内の市場で戦うことしかできない。
日本国内の生き残り戦略として、日本の経済の中でどうやって市場を確保するか、という視点で動いている。
日本企業が国内だけでなく、海外へも飛び出せるが、外資系企業は既に他国には他の支社があるので、日本国内で戦う他ない。 だからこそ、日本国内の社会貢献・地域貢献といった面を強く意識しているように感じた。 つまり、大きなお金を動かすためには、まずは小さなところから立て直す、整えていくということに注力するということだ。
グローバルな企業の社会貢献活動に携わった経験が、今の仕事に生きていると言える。
月 午前中に東京へ移動(3時間半)
火 東京
水 東京
木 東京
金 夕方に帰阪(3時間半)
土 大阪
日 大阪
横浜市金沢区のマンション(8カ月)
↓ 東京都千代田区のSOHO用のマンション(2年10カ月)
↓ 東京都港区のSOHO用のマンション(3年10カ月) 基本的に会社に住んでいた(笑)
寝る部屋と業務スペースは別。
会社の規模拡大と共にドンドン大きいマンションへ引っ越し。
顔面神経麻痺になった(笑) 手足のしびれも。
2010年7月頃のこと。 ▼そのときのことはこちらで綴っています
今日のお腹周りとか今読んだら笑えます。
ちなみに今のお腹周りも当時とそれほど変わりません!
早いうちに手を打ったおかげか、治ってよかった。
今から思えば、このころはストレスがピークだったのかもしれない。
仕事も変わり、住まいも変わることによって、適応する力が足りていなかったのかも。
心の状態が体調に影響するということを身を以て感じた出来事だった。
健康第一!
東京は首都圏だけに人が集まっていて、当時はよく友人知人と会っていた。 仕事関係のみの人間関係だったため、昔の知り合いや学生時代の友達との時間は貴重だった。
社長になるのを断ったから。(笑)
40歳になり、人生の折り返しとして考えた時に、東京での働き方に疑問を持ち始めた。
東京にいるとグローバル企業などの大企業や省庁などの仕事が中心となる。
仕事の報酬も高いし(笑)
もっとマイノリティである中小企業や地方の仕事をやりたいと思うようになり、退職。
大阪で会社を設立することに。
■七尾生活 基礎情報
大阪で独立後に、東京時代にお付き合いのあった七尾の知人から七尾で地方創生のプロジェクトが始まるに当たり、その責任者を公募するお知らせがあり。
是非、手を挙げてくれないかと。
応募した結果、応募した18人の中から公開審査を経て、選んでいただいた。
大阪でビジネスを始めており、近畿圏に顧客を抱えていたこと。
子どもも小学生であり、転校することのハードルもあった。
また七尾の仕事が週3日であったので、二拠点居住になった。
七尾の産業支援として、地場の企業の事業承継や新規事業開発などを支援。
2021年2月より、七尾市で会社を共同設立。
能登DMC合同会社
noto-dmc.com
記憶に残っている仕事と言えば、
2018年5月に、23団体が協力体制を組み、事業承継オーケストラという承継を支援する仕組みを全国で初めて立ち上げた。
※【事業承継オーケストラ】とは
地元の事業承継関連の金融機関・経済団体・行政・士業で協力体制を作り、それぞれ単体で支援するのではなく、ゆるやかに連携し、あらゆる側面からフォローしていこうという取り組みのこと。
2018年から3年やってきて、成功事例が出てきたのはうれしい成果だ。(2021年3月現在)
しいたけ農家、牡蠣養殖等。
月 午前中に移動。(5時間)
火 七尾
水 七尾
木 七尾(午後や夕方に移動)5時間
金 大阪
土 大阪
日 大阪 ※2020~2021年の緊急事態宣言期間は大阪に滞在。
2017年10月~2018年3月(6か月)賃貸マンション ↓
2018年4月~2021年現在は古民家
東京との2拠点のときは、子どもたちが小さかったこともあるが、東京に家族が遊びに来ることはほとんどなかった。 しかし、七尾市で古民家を購入し、民泊を始めると、長期の休み期間には子供も妻も遊びに来て滞在するようになった。 子どもたちが大きくなってきて、七尾にやってきてそれぞれがのびのび過ごしている様子を見ると、七尾での「暮らし」が定着してきたように思う。
特に子供たちは祭りに参加するのを楽しみにしている。 七尾市というより、能登全体がお祭りが生活の中にある風土であるが、年々祭りの担い手が減り、その街その地域だけでは祭りが成り立たなくなってきている。
そういったお祭りに、観光客ではなく、担い手として参加するのを、楽しんでいるようだ。 私を含め家族みんなが、受け入れてくれる地域の温かさに、ほっとさせてもらっている。
(中学1年生のときの息子)
東京での生活と七尾での生活を振り返ってみると、当時のことなど思い出されて、いろんな思いが駆け巡るが、自分が歩いてきた道は今に繋がっているなあと感じる。 次は、さっそく質問いただいた、「家族の理解を得る」の内容で書いていこうと思っている。 乞うご期待!
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